付き合いも大事ですが、自分の価値観も大事です。
半ば強制的に参加させられ…
先日、数年前に亡くなった祖母の法要がありまして、両親から「この日に法要があるから予定空けといて」という言葉が2か月前にはあって、
退路を塞がれて半ば強制的に参加させられるという状況でした。
クソ寒い中お寺まで行き、クソ寒いお堂の中で坊さんのお経を聞き、わたしの苦手な線香の匂いで具合が悪くなるという苦行を体験してきました。
お経を終えたあと、坊さんが神妙な顔で法要の意義など仏教的なことを語りはじめ、表情を取り繕うのが大変でした。
寒いので早く帰りたかった😰
常日頃、両親にはお世話になっているので最低限の付き合いとして参加を請われた法要等の行事には参加していますが、それがなければ絶対に行ってない。
ニートにとって親のご機嫌とりはビジネス?
坊さんが「法要を機に今一度、死が身近なものであると再確認してみてください」的な話をしていました。
それはそれで「まあ、そうでしょうね」とか「別に法要がなくてもちょくちょく考えますが」とか思いながら、
「人が死んでからやる儀式って、結局のところ生者の心の整理のためにやっているだよな…?」という思考が浮かんだ。
そして今回のわたしの場合、法要が単なる両親との家族関係を良好に維持するためのツールでしかなかったのではないかと。
もっと穿った見方をすれば、両親のご機嫌とりのために嫌なことを我慢したとも捉えられる。
そう考えると、実家に寄生させてもらっている身としては両親のご機嫌とりはある意味でビジネスかもしれない。
ビジネスだと思えば、少しは嫌なことも割り切れる気がする。
今回のことから学べたこと
もしも、わたしが法要への参加を断れるような強い立場にあったのなら…?
間違いなく参加を拒否している。
両親は法要などの行事をとても重要視しているようで、そのような価値観をさも当然のようにわたしにも当てはめようとしてくるのですが、
それは間違っているのではないか?というのがわたしの価値観で、お互いに完全にすれ違っているんですね。
先にも触れたように死者を弔うのは生者のための行為なのだから(わたしはそう思っている)、生者のためにならないのだとしたらやる必要はないのではないかと。
わたしの場合でいえば、正直なところ亡くなった祖母に対して特に何の感情もわかないので、法要をやりたい・参加したいという気持ちは微塵もわきません。
わたしよりも生前の祖母と関わりのあった両親なら祖母の法要に対して一定の動機があり、法要をする意義もあると思いますが、
「寒いから早く帰りたい」と思ってしまうような人間には法要は必要ないのでは?と思うのです。
今回の祖母の法要への参加は、自分の価値観と合っていないチグハグな行動はモチベーションも低下し幸福感も感じない、という失敗の経験として考えてみると学びになるかな?
Thanks🐟
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