『モモ』その時間はわたしの幸せにつながるか?

『モモ』表紙

童話だけど、込められたメッセージは大人向けだよなぁ…。

「時間泥棒」という言葉は知っていたけれど…

『モモ〔電子書籍版〕』ミヒャエル・エンデ著、大島かおり訳(岩波書店、2017)

以前読んだ他の書籍の中で童話『モモ』の話が一部紹介されていて、原作に興味があったので今回読んでみました。

「時間泥棒」というキーワードに心惹かれました。

「時間泥棒」という言葉は今日の日本では「時間を忘れさせるほどおもしろいもの」という割とポジティブな意味合いで使われているのを目にします。

ですが、『モモ』のなかで登場する「時間泥棒」はまったく違うネガティブな意味合いで語られています。

著者のミヒャエル・エンデ氏って『はてしない物語』を書いた人だったんですね、知らなかった。

『モモ』は1973年に初めて出版されたそうで、その少し前から著者はドイツからイタリアに移り住んだとか。

作品の中に表れている時代(価値観)の変化や変化によって生じる疎外は、おそらく著者が感じていたものだったのでしょうね。

時間の価値を何を基準に判断するのか?

『モモ』の作中の登場人物たちで主人公のモモ以外のほとんどは、時間の価値を「より多くのお金に変えられるか?」という基準で考えるようになってしまいます。

登場人物たちの価値観が「幸せ」の尺度が「富や名声」で測られる、

言い換えると「幸せ」になる手段が「富や名声」だけというものに染め上げられていたのではないかと思います。

要するに「手段の目的化」が物語の世界のなかで起きていたように感じました。

しかも、その「目的化してしまった手段」である「富や名声」を手に入れることができたとしても、その人にとって「富や名声」が「幸せ」であるとは限らないことをジジの姿が教えてくれます。

『モモ』の作品内における「(幸せになれる)時間を盗まれた」状態は、

「自分にとっての幸せとは何か?」を考えないで、自分じゃない誰かの価値観で幸せを求めてしまっている状態を表しているのではないでしょうか。

幸せの「ものさし」は人それぞれ

自分の二十数年の人生を振り返ってみると、「幸せのモデルケース」みたいなものを植え付けられる機会がいたるところにあったように思う。

まさに、『モモ』のなかでみんなが「富や名声」を重視するようになってしまったように。

例えば、しっかり勉強して偏差値の高い学校に入り、大企業や官庁など安定した職につくことが幸せであること、なんかがその典型。

反対に「不幸せのモデルケース」も同様に植え付けられていたように思います。

定職、友人や恋人の有無、結婚など「幸せ」を決める一般的な基準みたいなものが刷り込まれ続けた結果、

気がつけば自分の幸せの「ものさし」が一般的な基準にすり替えられている現代人も多いのではなかろうか?

かく言うわたしもそうなのだが。

少しずつ自分だけの「ものさし」を持ちたいと思っているのですが、なかなか染みついたものが抜けないんですよね…。

Thanks🐟

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